云わずと知れた「つけ麺」を世に広めたメッカのような場所だ。
店舗の二階から外階段を一歩一歩ゆっくりと下りながら、空席を待つ僕等に送ってくれた笑顔を時々思い出す。
脚が悪くて大層痛むのに、誰分け隔てなく接してくれたものでした。
07年の3月に閉店する間際に寒空の下居並んだ長蛇の列も印象深い。
沢山のひと達に親しまれ慕われた山岸さんは亡くなってしまったけれど、幾人もの弟子たちが今も「大勝軒」の暖簾を守っています。
そんな東池袋系の大勝軒や永福町大勝軒とは別に人形町系と呼ばれる「大勝軒」がある。
1914年(大正3年)の創業と云われる新川の横丁にある「大勝軒」。
レトロな佇まいがそそる横山町の「大勝軒」。
これまた昭和の香る室町本町の「大勝軒」。
ちょっと離れて、浅草橋の町中にある「大勝軒」。
そして、その本丸というべき「大勝軒 総本店」が人形町にあったのです。
残念ながら訪ねたことはありませんでしたが、訊けば洋食「芳味亭」の近くにあったのだという「大勝軒 総本店」。
人形町芳町の見番の裏手にあった「大勝軒 総本店」は、1905年(明治38年)の創業であったと階段の壁に掲示しているのが、銀座八丁目の江戸中華「日本橋 よし町」だ。
往時には色街の風情と賑やかさの最中にあったであろう「大勝軒 総本店」で27年間働き、20年近く料理長(チーフ)を務めた横山さんが1986年(昭和61年)の「総本店」閉店後には、同じ人形町で「大勝軒」を開き、永く「総本店」の味を引き継いできたとある。
その後2010年(平成22年)に縁あって銀座で腕を揮うこととなったらしい。
それを読んで、とんかつ「衣浦」の向かいにあった人形町「大勝軒」のことを礑と思い出す。
少々びっくりするような極細麺を自家製麺していると訊いて、妙に感心したはもう5年以上前のこと。
それが或る日訪ねたら忽然となくなっていて呆然とした、なんてことがありました。
白木のカウンターの隅に陣取って「叉焼麺」のドンブリを眺めます。昨今の足し算に掛け算を乗せたようなラーメンはどこ吹く風。
叉焼(チャーシュー)を縁取る食紅に年季の片鱗を漂わせています。
脂っ気を丁寧に執拗に控えた、そのお陰で澄んだコク旨味が淡々と滲むスープに泳いでいた麺を引き上げ啜る。それは実に嫋やかな、人形町で愕いた麺を彷彿とする極細麺。
スープに合わせて作った麺というよりは、自家製の麺に合わせて粋な中華を志向したら必然的にこうなったという風情のする。
うむうむ、これこそ呑んだあとにもすんなりといただける一杯でありましょうけれど、それはなんだか勿体ないことでもありますね。
思わず飲み干してしまったスープの底には「大勝軒」の文字。潜んでいた人形町の心意気を確かめてしまった気分です(笑)。
人形町でもいただいことのある「焼売」も是非いただきたいと。肉汁が滴ったり、強い香りのするのは粋じゃないとばかりの淡々とした佇まいのシューマイが口腔で綻びます。
「揚焼売」で麦酒が呑みたいと夜に出掛けたものの、焼売そのものが作った分全部出ちゃったのよとオカアさん。ならばと「細切りネギ叉焼」に「炸雲呑」を所望します。
胡麻油たっぷりでも辛味を利かすでもない葱とチャーシューの和え物にも一貫した仕立てが窺える。
揚げ物もあくまでカラッとして、油っこさを億尾にも出さないことに唸りながら麦酒のコップを傾けます。
そんな油を控えた和物な中華料理の真骨頂が「蟹肉炒飯」にも宿ってる。何気なく乗せた蟹足を解して匙を動かす。
世にパラパラチャーハンは数多あると思えども、ここまで軽やかなチャーハンはそうそうないでありましょう。
もうちょびっと油の薄い膜を纏ってくれていてもいいのではないか、いやいやこれでいいのだと想いが往ったり来たりいたします。
梅雨の晴れ間に出掛ければ、風に揺れる小さな幟に、冷やし中華はじめました。向かい側が喧騒の工事区画とは思えない穏やかな空気が漂っています。
目的のお皿はちょっと意外なモダンなお皿。少々奢った盛り付けも、お皿を決めた時点で既定路線になったのかも。
透明でレトロなお皿であったら違う見映えになったでありましょう。
具材の隙間から覗くはやっぱり自家製の極細麺。細いくせしてきちんと粉の風味を伝える麺ではあるけれど、どちらかといえばたっぷりのスープに泳がせてこそ真価を発揮するものなのだねとも思ったりする。
椎茸の旨みも印象的な初夏のお皿でありました。
色街人形町の残り香と「大勝軒 総本店」から引き継ぐ仕立ての江戸中華「日本橋 よし町」が銀座にあった。この6月で「日本橋 よし町」は閉店し、交代選手だという「山野辺」の開店準備へと移ったようです。
中央区銀座8-4-21 保坂ビルB1F [Map] 03-3573-0557