桜の散り際を迎えた祇園の白川に架かる橋、新橋。
その橋近くに町屋の表情で構えるのが、鮨の「閒」です。
暖簾から短いアプローチを辿り進んだ1階のカウンターは、先客もなくがらんとしている。
桜の時季にこの状況とは果たしてと一瞬戸惑うも、間違えましたとも云えず(笑)、促されるままカウンターの中央へ。実は、とある書籍に載っていた「変わり鮨」と洒落てみようという目論見だったのだけれど、開いた品書きには、そのあたりの件が見あたらない。
訊けば、もう随分前に止めてしまったのだという。
あ、左様ですか。然らば、コース料理の「新橋」をお願いすることにしましょう。
名物と枕詞された、ねっとりした食べ口の「焼胡麻豆腐」が口開け。
そして、前菜「帆立とフルーツトマトのミルフィーユ仕立て」。
フルーツトマトのスライスが薄く過ぎて、フルーツトマトらしい甘い風味が活かされず、帆立と合わせた意図がよく判らない。
続く御椀に浮かぶは桜鯛。
しゃきっとした若芽で囲み、桜の花の塩漬けをアクセントにしています。ただ、出汁は弱いか。
向付の三品は、三重からの直送天然ものだという鰹に鰤に鱸。
ポピュラーなお造りは、品書きの冒頭にある”選び抜かれた”タネだとは素直に思えず、伏し目がちになる(笑)。
進め肴「汲み上げ湯葉とオクラの土佐醤油ジュレ」。
ただ醤油を垂らすのではなく、土佐醤油にしてそれをさらにジュレに仕立てた仕事は、湯葉のとろみとシンクロさせるもの。ふうむ、例えば湯葉を岩塩だけで食べさせるのじゃシンプル過ぎるものなぁ。
メインとも云うべき握りが六貫。
吸盤ふたつを載せた活蛸、きはだマグロ、ツメの弱い煮穴子、浅い〆の鯖、底にシャリを仕込んだ玉子、白身はグレ(関西で呼ぶところのメジナ)。
正直云って、桧のカウンターの鮨屋で寿司をいただいてこんなに落胆したことはない。
第一にシャリがシャリじゃない。
関西のシャリは甘い傾向があると聞くけれど、こちらでは砂糖を使っていないそうで、つまりはそんな甘さのふくらみもなければクっとした酢や塩の切れもない。あっけないほどのあっさり。ほろほろっと崩れる具合はいいのだけれど。
タネも上品と云えば聞こえはいいけど、迫ってこないというか、潜む旨味にも乏しいというか。
ああ、嗚呼。
趣味志向が合わないからだとしても、もしや回転寿司に行けばよかった?と思わせるよな事態ってお互いに幸せじゃないよなぁと心に涙する。
折角のカウンターが静謐なままなその理由が判ったような気がしてしまう。
4年ほど前からツケ場を守っているという大将は、関西では、押し寿司がそうであるように“ご飯を食べさせるための寿司”なのだと云う。う~む、そしてこのシャリかと反って判らなくなってしまった。難しいなぁ。江戸前のつもりで食べる食べ手に決めつけが過ぎるのかもね。
洛中のお店だけで、東京での修行経験はないという大将。
つまりは、京流の握りということなのでしょうか。
食文化は上方からやってくる、と思うことも少なくない。
迎合しないことて守り抜いてきたことも多いのだとも思う。
でも、こと握りについては今や別だと思う。
もしも江戸前を知った上での京流ではないのだとすると、それは了見が狭いと思わざるを得ないな。
町家姿の「閒」に見送られ、
京都の他の店々へもお邪魔しなければならなくなったなぁと思案しながら歩くは、桜散る白川沿いの夜道でありました。
「閒」 京都市東山区祇園花見小路新橋西入ル元吉町57-1 075-531-5757
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