駅改札から浅草通りと三ッ目通りとの交叉点に上がれば、 ビルの隙間からスカイツリーの雄姿が迫る。 あ、三ッ目通りをここから南下すれば、酒亭「わくい亭」の辺りじゃんと思い出す。 でも今日は、それとは逆方向に進みます。
東武線の高架の手前にあるのが、レストラン「吾妻AZUMA」。店先の歩道には、古の瓦斯燈よろしくレトロな街路灯が立っている。 向かい側の住宅展示場の背後にスカイツリーを望みます。
扉の脇の貼り紙には、こうある。 毎朝直送、志摩半島的矢湾から愛を込めて「的矢かき」。 あるねあるねと呟きながら(笑)、その先のカウンターへと進みます。
カウンターの隅から振り返る店内。しっとりした木の色合いや表情が落ち着いた老舗の風格を思わせます。
ご注文は勿論、「的矢湾産カキフライ」。 オープンな厨房脇の壁には、大事そうに額に収めた写真が飾られている。 その下でキャプションしているメモには、蛎養殖の父 佐藤 忠勇博士とある。 カウンターに準備されたフライヤーによると、 佐藤博士は明治20年、ご当地本所生まれ。 プランクトンや海洋資源の研究を東北帝大(今の北海道大)で積み、 北海道庁技官として永年、全国の海、湾、入江を実踏記録調査。 志摩半島、的矢湾を理想の海と定めて、牡蠣の養殖法を完成させ、 的矢湾蠣養殖研究所を設立、全国に指導、普及した。 近年注目される海水の紫外線殺菌による無菌養殖法を早くも実施し、 昭和30年には特許を取得。 フランス他、国際的にも指導、貢献し、「的矢カキ」を世界に知らしめた、と続く。
日本の牡蠣養殖の父といえばそれは、 かの料理研究家岸朝子さんの父上でもある宮城新昌さんだとばかり思い込んでいたけれど、 およそ同時期に的矢湾を根城に世界的にも活躍した先生が他にもいたってことになるね。 ううむ、石巻か、的矢か…。
そんなことを気にしてどうするとばかりに芳ばしい匂いを漂わせながら、 カキフライのお皿がやってきた。まさに狐色に染まった細かめのパン粉を纏った牡蠣。
まずはそのままで、とのアドバイス通りに、 檸檬すら搾らず、すっとナイフを挿し込んで、 熱々具合の様子を窺いながら齧り付く。あああ、いいね。 火入れに活性した牡蠣の旨味と揚げ立て衣の芳ばしさのコンビは鉄板だ。
日を替えて、またまたカウンターの隅にいる。二階のテーブルから眺めるスカイツリーの借景も悪くないのではと訊ねると、 二階には席はないと断言された。 外観や二階への階段の設え具合からみても、二階も客席であったことは容易に想像がつくのだけれど、ランチ時は開放していないとかそういうことでもなくて、兎に角ない、のだそう。 ちょっと残念に思いながら、メニューを開きました。
コックコートのお三方の動きを眺めながら、 お願いしたのは先代創作と謳う「オムライス」。 意外に思うカレー風味のカップスープを手にふたたび、 厨房の所作を興味深く眺めます。
届いたお皿には、艶やかなチキンライス。ライス型でこんもりと伏せたようなフォルムから、 ゆっくりと湯気が上がっています。
と、そこへフライパンがそのままやってきて、 うりゃっと一閃するようにこんもりチキンライスの上にひっくり返す。とろとろっとチキンライスの斜面を雪崩落ちる玉子。 あっという間もなく、オムライスへと変身していく。
そこへ更に手鍋のデミグラスを回しかけ、 グリーンピースを散らせば、先代創作「オムライス」の完成だ。厨房に向けて翳したスプーンを徐に玉子の幕に挿し入れる。 どうも溶き玉子の表情に目を奪われがちだけれど、 その玉子で包んだチキンライスの出来がなかなか秀逸で、 炊き加減のよいゴハンの一粒ひと粒が立ちながら纏まり、そして解れる感じは、 まるで鮨のシャリの粋を思い出させてくれるかのようです。
ご主人と思しきコックコートの御仁は、 大げさなくらいに客あしらいに気を利かせてくれて恐縮至極(笑)。お隣さんが注文した「カキフライ」をちょっと多めに揚げてひとつ。 食べかけの「オムライス」のお皿の隅に、どうぞと載せてくれました。 こふいふのって、何気に嬉しいよねー。
大正二年創業の洋食舗、レストラン「吾妻AZUMA」。ファサードの壁に貼り込んだシートを改めてよく見ると、 「元祖とろとろオムライス」と謳ってる。 その下のフレーズが、なるほどご主人の思いをきっとそのまま表現しているのでしょう。 「また あなたに会える 下町のおもてなし」。 お値段の方ももう少しおもてなししていただけると益々嬉しいであります(笑)。
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「吾妻AZUMA」 墨田区吾妻橋2-7-8 [Map] 03-3622-7857
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