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かんだ「やぶそば」で温燗練り味噌の昼下がり柱山葵穴子焼き牡蠣の南蛮鴨せいろう

云うまでもなく、火事・火災というのは恐ろしいものです。
子供の頃、家の近所にある盃横丁を何かの拍子に通った際に、火災で焼けてしまったスナックの店内を図らずも覗いてしまったことがあった。
黒く爛れて物品が散乱した様子は、子供心にも重たく見える、印象的な光景だった。
叔母には、火事を見るとおねしょするから気を付けてね、というようなことを云われた記憶がある。
きっと火遊びを戒めると同時に、大人にとっても火災というのは強烈なストレスを齎すものなんだということを示す言い伝えなのでしょう。

歩き慣れた築地場外もんぜき横丁の火災は、実に衝撃的だった。
沖縄のランドマーク、首里城が焼け落ちるシーンもまた衝撃的だった。
そして、戦禍を逃れ往時の佇まいを残していた、
「神田藪蕎麦」の火災もまた、
決して少なくないショックをもって衆目の知るものとなりました。

2013年2月の火災により店舗の1/3を焼失した「神田藪蕎麦」は、
一年半後の2014年10月、改築した新店舗で営業を再開した。再開当初は、待ち兼ねた贔屓筋から話題に肖ろうとするひと達まで、
沢山の来訪者で行列が続いたのも記憶に古くない。
程度の差はあれど、みんなきっと、
再興なって良かったね、との想いであったことでしょう。
流石にもう再興の賑わいは落ち着いたであろう頃、
ひる下がりの淡路町を訪ねました。

新しいけれど新しさを思わせない、
そんな工夫が随所にあるような気もする、
そんな佇まいをしばし眺めて後、
おずおずとアプローチを辿る。

玄関ホールの壁には、
【やぶのれんめん】と題したパネルが掲げられている。
かんだ藪蕎麦は、今の五代目で100年を超える老舗であり、
さらには初代が「藪蕎麦」の屋号を譲り受けた、
「駒込団子坂藪蕎麦(蔦屋)」の創業まで遡れば、
時は徳川家斉の時代になるという。パネルが伝える【れんめん】は、額装の絵にも現わされていて、
「駒込団子坂藪蕎麦」から「神田連雀町藪蕎麦」、
そして今の店へと続く連綿を時代々々の情緒とともに示しています。

広い店内を見渡して、その時の気分で席を選ぶ。
空いていれば席を指定せず、
お好きなところへどうぞとされるのが、好き(笑)。
「やぶそば」の客席を巡るお姐さんたちの中には、
コントロールフリークにも映る方はおられません。

テーブル席に着いたなら、
思わず麦酒と云いそうになるところを抑えて、ぬる燗を註文む。日本酒は、菊正宗特撰、一本槍。
お銚子に特製「ねりみそ」が添えられるのが、
呑兵衛心の出鼻を擽るのであります。

時季により変化する酒肴の中から、
冬場なら青柳の「柱わざび」が、いい。軽やかに揚がった「季節の天ぷら」の中に牡蠣を見付けて、
ニンマリするのもまた、いい(笑)。

いらっしゃいぃーーー。
ありがとー存じますぅーーー。
せいろーいち枚ぃーーー。
麦酒一杯ぃーーー。
お発ちでございますぅーーー。
フロアを行き交うお姐さんたちの、
いーーーー!
という澄んだ声と調子もまた「やぶそば」の特徴ですね。

小さく手を挙げればすぐに、
はい伺いますぅーーと席まで来てくれる。
「鴨せいろうそば」がやってきました。翡翠色、というよりは、
明るく渋い鶯色の蒸篭の蕎麦。
蕎麦粉十割の新進の求道系とは違う、
老舗の風格がじわじわと伝わってきます。

およそ裏を返すように訪れた冬の或る日。この看板も火災の難から逃れたものなのだろうかと、
玄関上を見上げながら店内へと進みます。

口開きはやはり、
菊正宗のぬる燗と「ねりみそ」のコンビに委ねる。小上がり席をふと見れば、
ひとりひる酒を嗜むご同輩の朗らかな背中がありました(笑)。

「ねりみそ」に続くお銚子のお相手に「牡蠣の南蛮漬け」を。硬く縮まないようふっくらと火を入れた牡蠣が、
こっくりとしたたれを纏って、
いやはや、ズルい酒肴に仕上がっています。

やぶ印の七味竹筒と一緒に届いたのは、ご存じ「天ぬき」。汁っぽい酒菜が気分な時には特に、
お望みに適う器であります。

同様にちょっと脂っけある酒菜が欲しい時に最高なのが、
冬場も旨い「あいやき」であります。上等な合鴨肉と根深(長葱の別名)をその鴨の脂で焼いた逸品。
柔らかな合鴨の脂の甘みは、葱にもいい具合に沁みています。

「せいろうを一枚」と、そうお姐さんに告げて、
せいろーいち枚ぃーーー!をそっと聞く。蒸篭に添えてくれる辛汁は、
決して過ぎない円い甘みと角のないすっきりとした醤油が印象的だ。

そんな辛汁の残りへと注ぐ蕎麦湯は、
わざわざ仕立てたものではなさそうな真っ当なもの。蕎麦湯を愉しみ乍らふと空っぽの蒸篭の縁が目に留まり、
竹簾を湾曲させているのに気が付いた。
水切りをよくするための工夫なのでしょう。

どふいふ訳か此方に足が向くのは冬ばかり。
或る冬の日のひる下がり、
蕎麦前には質実正統なところから選んでみようと思い付く(笑)。小田原産の極上蒲鉾との説明を読むと、
あー鈴廣のものなのだろうなーと皆が思い付く。
焼き海苔は勿論、火種を潜ませた海苔箱でやってくる。
初めてこの箱を目にしたのは、
今は移転してしまった森下の「京金」だったことを思い出します。

ここですっと気になっていた「あなご焼き」をいただく。酢橘をささっと搾って、端から口に含んでみる。
うんうん、炙った周囲の皮膜や香ばしく、
穴子の滋味をあっさりと堪能出来ます。

そしてお待ち兼ねの「牡蠣そば」。決して大き過ぎない牡蠣の身に優しく熱を入れた気配のする。
生の牡蠣も悪くはないけれど、やっぱり火の入った牡蠣が、旨い。
そんな牡蠣の旨味をやや濃いめの甘汁がグイッと後押ししてくれます。

フロアの要に歴とした帳場があるのも、
「かんだやぶ」が「かんだやぶ」であるところ。縦横無尽にフロアを行き交うお姐さんたちにそっと目配せするのも、
どうやら帳場の役割のひとつであるようです。

戦禍を逃れた神田連雀町に「かんだやぶそば」は、ある。火災に見舞われようとも、それを機会にビルにするようなことなく、
旧来の佇まいを保とうとする心意気が清々しい。
この情緒と老舗の味を堪能しにまた訪ねたい。
ゆるっとした雰囲気漂うひる下がりが、やっぱりいいですね(笑)。

「やぶそば」
千代田区神田淡路町2-10[Map]03-3251-0287
https://www.yabusoba.net/

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